息子は5歳にしてYouTube動画の撮影を自主的に始めるのを見て、とんでもない時代に突入したな。と思うむくもみです。
5歳が遊ぶように仕事に触れてる
今回は見ているようで見えていないもの。というテーマでお話ししたいと思います。
〜本題に入る前にお知らせをさせてください〜
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それじゃいきましょう!
▼全体を見る
僕は職業柄、毎日多くの生徒・保護者と関わります。
少ないときで15名くらい。
多いときで200名くらい。
週で計算すると500〜600名くらいの生徒・保護者と関わります。
全ての生徒・保護者に目を向けることを意識します。
見てもらっていない‼️
放っとかれている‼️
という生徒・保護者が出ないようにするためです。
多く見てもらっている。という喜びを増やすことよりも、見てもらえていない。という悲しみを減らすことを優先して考えているからです。
満足する人の数よりも、不満に思う人の数を減らす。
これにはもう少しカラクリがあって、隣の人が優遇されているように見えることを不満に思う人がある一定数いることを理解しているのです。
他人の幸せ=自分の不幸せ
と思う人がいるということです。
元々、幸せや満足感は他人と比べるものではないのです。
少し話がそれましたが、満遍なく生徒・保護者を見るように、関わるように気をつけています。
▼限界はある
しかしこれには限界があります。
可処分時間というものです。
僕が生徒・保護者と関われる時間には限りがあります。
60分の間に60人いれば1人に割り当てられる時間は1分です。
他の人に少しでも多く時間を割けば、誰かの時間を削ることになります。
もちろん現場では時間通りにいく訳もありませんが、こういった事を意識していないと不満のタネを撒くことになってしまいます。
▼ミクロには見られない
全体を俯瞰して、できるだけ多くの人と満遍なく関わることを意識すると一人一人をしっかりと見ることは難しくなります。
もちろん見ようという努力はしています。
それでも満遍なくサービスを行き渡らせようとするには限界があります。
全体での満足度を優先するために、個別での満足度に片目をつぶる。
そしてこれは誰かをないがしろにしているのではなくて、皆んなをないがしろにしないための意識です。
全員をある一定の満足度に引き上げるための考え方です。
ミクロに見ることを諦めているのではなく、あえてミクロに見ることを選択していないのです。
常に全体善を取りにいく。
これが大切です。
▼見ているようで見えていない
こうして多くの人と関わりを持ち全体善の最大化に目を向けると、生徒も保護者も見えていなかったな。と反省するタイミングがしばしば訪れます。
どのタイミングかというとそれは自分の元から去るときですね。
生徒・保護者が自分の元から去る時には毎回思います。
もっと見てあげればよかったな。
と。
しかし誰か1人に目を向け過ぎれば、他の誰かを見る時間を減らすことになります。
指導者や先生と言った職業に従事する人のジレンマですね。
▼見えないことはある
どんなに注目して見ていたとしても見えないこともあります。
この子はきっと気をつけて見ていないとすぐに僕の元から離れてしまうな。
ということが感覚として訪れることがあります。
そう思うから少しだけ多く目を向けて、声をかける。
しかしその子からすれば目をかけられすぎることがプレッシャーになってしまっていました。
そうして目をかけていたにも関わらず、というか目をかけすぎたことで僕の元から去っていきました。
どんなに見ていても見えないこともあるのです。
自分のこどもなんて、その最たる例ですよね。
▼まとめ
見ようとしても見えないこともあります。
それはこれから先も同じなのです。
だから見る努力をする意味がないのとは違うと思います。
見ているけど見えていない。は普通です。
見ようとするその姿勢こそ重要なのです。
それじゃいってらっしゃい‼️
今日も素敵な1日を‼️🤗
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