ベビちゃんがやってきて、上2人はちゃんと兄と姉になってきていることに環境の変化ってすごい。と感心するむくもみです。
やっぱり面白い
今回は教える側こそ我慢が必要。というテーマでお話ししたいと思います。
〜本題に入る前にお知らせをさせてください〜
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それじゃいきましょう!
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▼1.学びは一方通行ではない
教えることは容易い。
答えを伝え、考え方を解説することは、簡単な作業である。
しかし、真の学びは一方通行ではない。
教える側も、我慢と配慮が必要とされる。
教えるということは、その人(子)に学んでもらいたいということです。
算数を教えているのであれば、計算ができるようになって欲しいということです。
計算ができるようになるとは、つまりその人が自分の頭で考えて、答えを導き出せるようになって欲しいということです。
教える側は一緒になって計算問題を見ていると先に答えがわかってしまいます。
すると解けない教え子にヤキモキすることもあると思います。
そうして答えを教えてしまうと、その人の考える力を伸ばすことができなくなってしまうのです。
▼2.考えさせる難しさ
学びは知識を超えて、思考と洞察を養うことである。
そのため、学習者を考えさせることが肝要である。
しかしそれは、容易なことではない。
学び手を鼓舞し、自発的な思考を促すには、教える側の巧みなアプローチが必要である。
答えを教えているばかりでは、答えに導くための思考力が伸びていきません。
思考力が伸びていかないということはこれから生きていく上で数多訪れる問題に対して、考えて立ち向かって、乗り越えていく力を伸ばせないということになります。
それは本当に教える側が望む姿でしょうか。
いつまでも答えを教えてもらうことを待つような人に育って欲しいと願っているわけではないはずです。
▼3.教える側の我慢
学び手を養うには、教える側が口を出さず、待つことが不可欠である。
自らの知識を注ぎ込むのではなく、学び手が自ら考え、洞察する機会を提供することが肝心である。
この行為こそが、真の教育の姿である。
教える側は我慢が必要なのです。
頭の中で道に迷う。
そこで手を差し伸べたくなる気持ちはとてもよく理解できます。
自分の我が子が迷っている。
手を出してなんとか良い方向へと導いてあげたくなる。
でも我慢なのです。
その時にこそ、その子は学んでいるのです。
教える側の我慢はとても苦しいものです。
それでも本人を信じて、多少の失敗には目を瞑ってあげましょう。
▼4.知恵の伝授
魚を与えることよりも、魚の釣り方を教えることが肝心である。
教える側は、学び手に持続的な学びの力を与える役割を果たす。
忍耐と配慮を持って、学び手とともに歩むことが、真の知恵の伝授の道である。
昔から言われている格言です。
魚を与えるだけでは、与えてくれる人がいなくなれば死んでしまう。
大切なのは1人でも生きていけるように教えてあげることなのです。
いつまでも面倒を見てあげれるわけではないのです。
▼まとめ
教えることは単なる知識の伝達ではない。
学び手を成長させ、考えさせることが真の教育である。
教える側も、我慢と配慮を持って、学び手とともに歩むことが、持続的な学びの源泉となるのである。
知識の伝授は、忍耐と配慮を要する。教える側も、学び手とともに成長し、共に学ぶことが真の教育の姿である。
それじゃいってらっしゃい‼️
今日も素敵な1日を‼️🤗
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