息子も娘も見てないところで勝手に成長しているものだな。と思う反面、教育とは親を含めた自分の環境に影響されるということをとても感じているむくもみです。
勉強は興味や好奇心を満たすためにあるんだよ!
これとっても大切!
今回は、先生と呼ばれる存在は教育の結果を見られないことがほとんどだよね。というテーマでお話していこうと思います。親は共に過ごすことがあっても先生と呼ばれる存在とは結果が現れる前に別れることになりがちで本当に尊い仕事だよね。と結論まで言ってしまいましたが最後までお付き合いください。
それではいきましょう!
先生という仕事
先生とか指導者の儚さというのはとても素晴らしいと思います。
話が急展開だけど聞いてね〜
例えば、小学6年生の男の子が目の前にいます。 ちょっと周りとコミュニケーションを取るのが苦手です。 なんとなくだけと、中学生になるとイジメの対象になってしまうような気がします。 勘違いなのなかもしれない。勘違いなら問題ないし、何もしなくていい。 でも勘違いでない場合で先生がイジメられないように何かしらの手ほどきをしたとします。 実際に中学生にあがった時にイジメられずに済んだとします。 でも先生が手ほどきしてくれたおかげで中学生生活を満喫しています。って事にはたぶんならないんだと思います。
悪魔の証明
悪魔の証明:存在するのかどうかは決して検証することができないことを意味する
悪魔の証明と一緒で、手ほどきしなかったパターンと比較検証することはできません。
その子にとって良いことをした。
先生に出会えたことは間違いなく生徒にとってはプラスだったんだと思います。
でも先生はその感謝を受け取れなかったりします。
それはもちろん先生感謝されるためにやっているんじゃないと思います。
それでも心のどこかには「俺が!」とか。「僕のおかけで!」という気持ちが隠れていたりすると思います。
でも受け取ることはできないかもしれません。
受け取ることができないことの方が多いよね。。。
ただただ与えるばかりです。
だから聖職とも言われるんじゃないかと思います。
なんというか、清廉潔白だから聖職なのではなくて日々の行いそのものが尊いからそう言われるんだと思います。
そして誰もが誰かの先生になり得るんだとしたら、今回の話を覚えておいて欲しいと思います。
そして今まで与えるばかりだった世の中の全ての先生たちに賞賛の拍手を心から送りたいと思います。
あなたたちのおかげで世の中はとんどん良くなっているのです。
ありがとう。
まとめ
もしこれまでに誰かにもらった恩を感じるのだとしたら、その受け取った恩は返すのではなく、また次の誰かに送ってあげられればいいのかな。と僕は思います。
僕は個人的に送った恩(恩というと恩着せがましいんだけど)は返して欲しいとは思わないんです。
なんとなくプレゼントしたものを返されてしまった感じがしてしまうのです。
だからもらった恩には全力で喜んで、僕の周りの人に与えていく。
そうやって恩や感謝は循環することで世界は少しづつ良くなっていくんだと思います。
それじゃいってらっしゃい‼️今日も素敵な1日を‼️🤗
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